JAL123−急減圧流は存在しないと「事故調は認識している」(19)
2016-08-26


「急減圧があった。なかった」と、不毛の論争が、今日まで続いています。
このままでは、「永久に続く」のは目に見えています。

一連の当記事で述べた、「プレッシャー・リリーフ・ドア」のトリックをきちんと見抜けば、「急減圧流は存在しなかった」と、誰でも容易に理解できます。

それは、とりもなおさず、事故調の主張が「根底から崩壊する」ことを意味します。

事故調が、人々をだますために作成した「事故調査報告書」自体が、「急減圧流は存在しない」と、図らずも白状していることになります。

だからこそ、それを隠すために、事故調は、(国土交通省)『運輸安全委員会』と名称を変えた今日でも、当時とまったく同様に「ウソをつき続けている」のです。

『運輸安全委員会』
[URL]

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事故調が、真相隠しの「ウソ報告書」を作成したのは、123便墜落が初めてではありません。
今までも、さんざん行ってきました。
(「事故調査委員会」以前の旧組織である、「事故調査団」も含みます)。

主な事例は、以下の通りです。

◎ 昭和41年2月4日(1966年)
「全日空のボーイング727型機」が、羽田空港に着陸進入中、東京湾に墜落。

◎ 昭和41年3月4日(1966年)
「カナダ太平洋航空のダグラスDC−8型機」が、濃霧の中を羽田空港に着陸進入中に、高度が低下して進入灯に接触、滑走路上で大破炎上。

◎ 昭和41年11月13日(1966年)
「全日空の日本航空機製造YS−11型機」が、松山空港で、着陸やり直しのため再上昇中、機首が下がり、海上に墜落。

◎ 昭和46年7月30日(1971年)
「全日空のボーイング727型機」が、岩手県雫石(しずくいし)上空で、「航空自衛隊のノースアメリカンF−86F型戦闘機」と空中接触し、両機とも墜落。

◎ 昭和57年8月26日(1982年)
「南西航空のボーイング737型機」が、石垣空港で、着陸時にオーバー・ランして大破し、爆発炎上。

◎ 昭和58年3月11日(1983年)
「日本近距離航空の日本航空機製造YS−11型機」が、中標津空港(なかしべつ)で、着陸進入中、機体が右に傾き、滑走路手前に墜落、大破。

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このように、事故調には多大の「実績」があるので、123便の「ウソ報告書」に対しても、「いつもの通り、また、やったな」と、抵抗なく認識できたわけです。

ただし、上記の事例は、いずれも「事故(のはず)」です。
一方、123便は「事件」であり、特別に「深い闇」があると言えます。

※ いずれ、上記、各事例の問題点についても述べる予定ですが、現時点では、いつになるかまったく未定です。

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「航空事故調査報告書」は、航空界向けの文書なので、専門性が高く、味も素っ気もない文章です。

それを引用して、論述したので、一連の当記事も、味も素っ気もない文章に、ならざるを得ません。

さらには、今年5月のパソコン故障をきっかけとして、記事の更新が大幅に遅れてしまいました。

にもかかわらず、最後までご高覧下さり、感謝申し上げます。

「日本航空123便墜落事件」の問題点・疑問点は、まだいろいろあります。
今後、少しずつ、掲示していきます。
よろしくお願い致します。

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<今回が、最終回です。ご高覧お疲れ様でした>

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