踏切2名死亡事故に見る、「人間の運命」について
2017-05-31


[カテゴリ: 精神世界>地球社会]

このたび、以下の連載記事(4回)を掲示しました。

『踏切内で「人を救助」する時は、「非常ボタン」を、ぜひとも「最優先に押すべき」です(1)〜(4)』
2017年05月13日〜27日
http://21utbmjdai.asablo.jp/blog/2017/05/13/8557385

第4回目の記事で、「路線バス誘導員」の存在を述べました。
http://21utbmjdai.asablo.jp/blog/2017/05/27/8576192

この存在を知れば、誰もが、「非常な皮肉」を感じるのではないかと思います。

「路線バス誘導員」は、踏切の監視・誘導員ではありません。

しかし、同じこの場所で、常時、誘導作業を行っています。

事故当時、警報器が鳴り、遮断機が下りている踏切に、二人の人物が入り込んでいました。

もし、この二人の存在に、「路線バス誘導員」が気付けば、二人は亡くならなかったかもしれないと、多くの人々が思うのではないかと、想像してしまいます。

もちろん、その一方では、この誘導員は、あくまでも「路線バスの誘導員」であり、「踏切の監視・誘導員ではない」と、誰もが理解するはずです。

第4回目の記事に掲げた写真にもあるように、この誘導員は、踏切に背を向けて仕事をしています。

背後の二人に、気付くはずがないと、容易に理解できます。

誰もが、理屈では分かるはずです。

それだけに、かえって理屈では割り切れない、「何とも、しっくりしない」想いを抱くのではないかと、思えてなりません。

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例えば、東日本大震災で、多くの人々が、津波で命を失いました。

その時に、一方では、「自分だけ助かった人々」も、少なくないようです。

親と子、あるいは祖父(祖母)と孫など、二人が同時に津波に巻き込まれ、一方は亡くなり、一方だけが助かる、非常につらい状況に陥り、助かった人が「生き残った自分を責めている」場合も少なくないように見えます。

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しかしながら、人間の生死は、「人間には決められない」と言えます。

現実問題として、亡くなる時は、どうやっても亡くなります。

逆に、助かる時は、(必ずしも)助かろうとしなくても、助かると言えます。

もちろん、助かろうと努力した結果、助かった事例も多数あるのは、言うまでもありませんが。

それは、見方を変えれば、助かろうと努力したが、結果的に、助からなかった事例も、少なくないはずと、言えます。

結局のところ、助かるか、助からないかは、結果次第と言わざるを得ません。

もちろん、事故や自然災害に限りません。

病気であれ、事件であれ、さらには自殺であれ、人間の生死すべての場合に、言えることです。

例えば、自殺の場合、それを実行したにもかかわらず、「何らかのじゃまが入って」、結局、「死ねなかった」場合も、少なくないと言えるはずです。

例えば、電車に飛び込んだけれども、電車が直前で急停車して、ひかれなかった、などの事例が考えられます。

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いわゆる「運命」が、人間の生死を決定すると言えます。

ただし、ここで言う「運命」は、あくまでも「精神世界」の観点から見た運命です。

「精神世界」の分野ではなく、ありふれた「常識的な世界」では、「運命なんか存在しない」と主張する人たちも、少なくありません。

この両者は、同じ「運命」でも、意味が違います。


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